渡邉澄晴の写真雑科 6
14. 重要なクレーム処理を担って
私のニューヨーク行きの目的は、ニコンFのモータードライブカメラのクレーム処理と使用状況調査であった。カメラの底に自動巻上げ装置(モータードライブ)を取り付け、1秒間3駒の連写ができる当時としては画期的な連写カメラで、欧米の報道カメラマンは競って使い始めていた。
しかし、相手は使いの荒いプロカメラマンである。クレームも尋常ではなかった。そのクレームの処理と調査の役を担っての渡米である。当時は会社の規定により妻帯者も単身赴任だった。方向音痴の渡辺に大事があってはいけないと、会社ではあれこれと手を回してくれた。
15. 人間書留
正式に出発が決まったのは1962年9月15日。この日はくしくも私の33歳の誕生日だった。
会社から車が迎えにきた。妻と2歳の長男を伴って羽田へ向かった。羽田では会社の担当者がてきぱきと渡航手続きをしてくれた。
羽田を発って7時間。給油のためハワイに着くと日本航空の職員が迎えに出てくれ、給油が終わるまで空港ロビーで接待してくれた。そしてサンフランシスコを経由して羽田から17時間、無事ニューヨークに到着した。空港では現地法人の副社長として先に着任していたS氏が迎えに来てくれた。
16. 上を向いて歩こう(スキヤキソング)
会社で手配してくれた下宿はブルックリンにある高級住宅地だった。その下宿に向かう車のラジオから思わぬ歌が流れてきた。坂本九の歌う「上を向いて歩こう」である。アメリカでは「スキヤキソング」といって、この歌はいま大流行なんだ!とS氏が説明してくれた。
自宅からニューヨークまで方向音痴の私を何の気遣いもさせず大事な荷物のように扱ってくれ、無事に目的地まで届けてくれた関係者には感謝!感謝!であった。まさに「人間書留」のような旅だった。「無事にニューヨークに到着」と、この日の夜、妻に手紙を書いた。