ニューヨーク物語26 「フリーダ・カーロの遺品」
友人に誘われて、久し振りに試写会を訪れた。
『フリーダ・カーロの遺品 – 石内都、織るように』
この映画は、小谷忠典監督が、メキシコの「青い家」(フリーダ・カーロ博物館)に於いて、石内都氏のフリーダ遺品撮影の過程を追ったドキュメンタリーである。
僕とフリーダとの出会いは、ジュリー・ティモア監督によって製作された『フリーダ』(2002年)だった。フリーダ・カーロ、1907-1954年。父親は職業カメラマンだった。6歳で急性灰白髄炎にかかり、18歳の時には、交通事故によって重い後遺症を負った。その長い入院生活の中で本格的に絵を描きはじめたという。やがて、21歳年上の画家、ディエゴ・リベラと恋に落ちる。リベラの女性関係は激しく、それに抵抗するかのようにフリーダも他の男性との恋を重ねていく。
二人の愛の形はとても衝撃的で、忘れられないアーティストとなった。彼らは、仕事の為に都市を転々とするが、1930年代初頭にはニューヨークに滞在し、フリーダの初の個展もニューヨークだった。
© Fumio Tanai / HJPI320610000334
さて、小谷監督作品『フリーダ・カーロの遺品〜』だが、遺品を撮影するとはどんなことなのだろうか…
かつて、生前遺影(生前のポートレイト)撮影に立ち会った際、写真が人やモノなど被写体の死を内包することを意識するようになり、そんな想いで街や人々にカメラを向けることも増えた。また、近年、スマートフォンの写真アルバムにその1枚を収めることで、これまで処分出来なかった身の回りのモノや、大切な人が残した品々を手放す人たちがいる。僕自身も、ニューヨークで引っ越しを繰り返す中、同じような行為をしたことがある。しかし、撮影したからといって目の前に存在するモノを葬ることなど出来る訳もなく、結果、そのほとんどを手放すことはなかった。
そんなことを思い出しながら足を運んだ試写会であったが、フリーダの遺品撮影が進んでいくと、彼女が愛用していたテワナ(ドレス)が、メキシコ、オアハカ州の人々が現在も着用している民族衣装であることがわかってくる。それは、母から子へ、そして孫へと、魂と共に受け継がれるドレスであり、そのことの方が、大きく僕の心に触れて来たのだ。小谷監督のカメラも、遺品撮影やフリーダという記号から、民族のアイデンティティーとも言うべき、そのドレスへと向かっていくようにも感じられた。
本来、撮影機材の話をするのは好きではないが、やはり写真関係者にとっては、この遺品撮影でどんな機材やフィルムが使われたのか、気になるところだろう。
スクリーンからは、ニコンF3ボディ(注1)に、55ミリのマクロレンズが装着されていることがわかる。そして、コダック製のネガカラーフィルムを使用しているのではないかと思われる。写真は、デジタルで撮影するか、フィルムで撮影するかでは依然として仕上がりに大きな異なりがある。もっと言うならば、ポジフィルム、ネガフィルムのどちらを選択するかによって、ライティングなどでは調整することが出来ない、微妙なニュアンスが現れてくる。映し出されたニコンF3の露出設定はオート。もし、ネガカラーフィルムを使用しているとすれば、ラティチュード(注2)によってこれも可能であろう。そして、このフィルムの特性としての柔らかいトーンと穏やかな発色が期待出来る。また、背景が白ではあるが、特記すべき道具は使用されていない為、写真は更に柔らかさを益すことになる。
映画の中では、フリーダの作品も紹介されている。彼女が残した作品の大半は自画像であり、葛藤と共に描き出したであろうと思われる自身の姿が、死後50年の時を経て公開された遺品と共に、多くのことを語りかけてくるようだ。リベラはフリーダのテワナ姿を好んでいたという。フリーダ・カーロとディエゴ・リベラ、衝撃を受けた二人の愛の形だが、10年の海外生活を経て、いま僕はそれに共感しはじめている。
(注1)ニコンF3 : 1980年、発売。電子制御式シャッター、絞り優先AEを搭載。F4(1988年)、F5(1996年)が発売されて以降もF3は姿を消すことなく、このシリーズでは最長の20年に渡って製造された。
(注2)ラティチュード : フィルムなどが再現できる露光の範囲。ネガフィルムはラティチュードが広く、ポジ(リバーサル)フィルムやデジタルカメラのデータは狭い。一般に、撮影に於いてはラティチュードが広いネガフィルムの方が扱い易いとされる。
2015.7.30