渡邉澄晴

渡邉澄晴 写真エッセイ 1「50年目のニューヨーク」

渡邉澄晴 写真エッセイ 1 「50年目のニューヨーク」

 当時勤めていた会社の命により1962年9月15日ニューヨークに赴任した。奇しくも私の33歳の誕生日だった。赴任して間もなくケネディー大統領がテレビラジオを通じて「ソ連がキューバにミサイル基地を建設中である」と発表。「キューバにミサイルを運ぶ船舶には断固タル措置をとる」と表明し、米・ソ一触即発の危機にに全世界が緊張した。その翌年の11月22日テキサス州ダラスで、ケネディー大統領が暗殺されるというショッキングなニュースが、初の人工衛星によるテレビ放送中に起き、リアルタイムで全世界にながされた。ベトナム戦争も拡大の一途、世界はだんだんきな臭くなっていった。

1964年日本では東京オリンピック、そして新潟大震災があった。その直後、私は2年ぶりに帰国した。翌年ニューヨークの若者たちを撮った写真展を、銀座の富士フォトサロンで開催。「ワシントン広場の顔」というテーマで、全紙・全倍合せ123点を展示した。

50年のこだわり
あれから50年になる。数年前から50年目のニューヨーク取材を決めていた。そしてその前年の秋頃から旅行社に相談し、具体的な日程を決めた。しかし、しばらく行っていないニューヨークはまったく様子が分からない。観光とは異なりこの種の取材はツアーを組んで行くものではない。さりとて一人では心細い。そこで友人で現地滞在の彫刻家・斉藤誠治氏に「助手を探している」と打診した。間もなくメールが届いた。「斉藤先生から詳細を聞きました。渡邉さんの滞在中、僕の時間の許す限りお手伝いさせていただきます。」現地で活動している写真家の棚井文雄氏からだった。彼とは、彼がニューヨークに行ってからもメールでは何度か連絡を取り合ってはいたものの、まさかアテンドを引き受けてもらえるとは…、そのメールはとても嬉しかった。彼はアテンダーとしても一流だった。(棚井文雄 ニューヨーク物語 8 を参照)
で撮影はスムーズに終わった。正味6日間の滞在中、初夏から初冬のような気候を体験、おまけに雷・夕立まで経験するという写真日和だった。当然、撮影はすべてデジタルカメラである。メモリカードに記録された画像は、ホテルに戻りパソコンで整理してハードディスクにもコピーした。整理した後、その日の成果はすぐにパソコンで再確認。これが「明日もまた…!」と、写欲を湧かせるひと時にもなった。考えてみると便利になったものである。

2013.6.1

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