棚井文雄

ニューヨーク物語30「モハメド・アリと渡辺澄晴と僕の三つ目の坂」

ニューヨーク物語30
「モハメド・アリと渡辺澄晴と僕の三つ目の坂」

 「アリが亡くなった」、というニュースを聞いて、プロレスファンの方ならば、アントニオ・猪木がリングの中央に寝転んだままの状態でキックを放ち続け、「蝶のように舞い、蜂のように刺す」とも言われた身長190cmものアリの動きを封じ組めた、あの名シーンを思い浮かべることだろう。
しかし僕は、子供の頃によく遊んでくれた親戚のおじさんの訃報を知った時のような、何ともいいがたい気持ちに襲われ、頭の中は真っ白になった。
 僕の父は、アントニオ・猪木が率いる「新日本プロレス」の大ファンであった。そのため、幼年期の頃からよくプロレス中継を一緒に観ていたし、新日本プロレス全盛期の象徴のように日本に呼び寄せられたアリに対して、特別な親近感を覚えていたようだ。そして、少年時代の僕のテーマ曲の一つとも言えるアントニオ・猪木の「イノキ・ボンバイエ」、あれはアリが自身のテーマ曲である「ARI BOM BA YE / アリ・ボンバイエ」を “格闘技世界一決定戦” 後に猪木に贈ったとされているのだ。
一方、後に知ったことではあるが、ベトナム戦争時の徴兵拒否により、長期に渡って政府と闘ったアリへのリスペクトのような想いも影響しているだろう。

 そのアリに、渡辺澄晴氏(当協会名誉会長)は会ったことがあるというのだ。1962年9月15日、当時ニコンに勤めていた渡辺氏は、ニューヨークに赴任した。間もなく、シカゴで世界ヘビー級チャンピオンのフロイド・パターソンと、チャールズ・ソニー・リストンとのタイトルマッチが行われることになり、渡辺氏は特設リングの真上に5台のカメラを設置するという仕事の指揮を取った。試合は、あっという間で、挑戦者のリストンが、チャンピオンのパターソンを1ラウンドでリングに沈めた。
2年後の1964年、そのチャールズ・ソニー・リストンは、モハメド・アリに王座を奪われてしまう。そして、アリは、アントニオ・猪木との「格闘技世界一決定戦」の為に、1976年に来日した。

 この時、渡辺氏の周辺から、「アリを会社に招待して、ニコンのカメラをプレセントしよう!」という話が持ち上がった。「3億円のファイトマネーのアリが、来るとは思えない」という異論もあったのだが、それに反してアリ側はあっさり快諾。アリがニコンのファンだった、との話もあるが、当時のアメリカでニコンがどれだけの評価を受けていたのかが伺い知れる出来事だ。そして、ニコンの最高級機であった「NikonF3」の組み立て工場へアリを招待することが決まると、社員たちはパニック状態になったそうだ。

 いまでも、試合前のアリと猪木の記者会見シーンをよく覚えているという父だが、何と僕が生まれた時にも、自宅の居間でプロレス中継を観ていたらしい。それは、ジャイアント馬場の「16文キック」が炸裂した瞬間だったというが、まさか、僕の名前の由来は16 “文” キックではないと信じたい。

2016.6.7

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