渡邉澄晴

渡邉澄晴 写真エッセイ 2「東京オリンピック1964年」

渡邉澄晴 写真エッセイ 2 「東京オリンピック1964年」

 1960年代、アメリカの報道カメラマンが使っていた常用カメラは、日本製の一眼レフカメラ(主にニコンF)。一方、日本ではアメリカのグラフレックス社が戦前に売り出したスピードグラフィク(通称スピグラ)だった。カメラを支える左側のグリップには大きなフラッシュが付けられる大判カメラ。人目でそれと分かる報道カメラマンスタイル、私も一度使ってみたいと思っていた憧れのカメラだった。しかし、見た目通りに大きく重く、操作性の悪いカメラだから動きの早いスポーツ撮影にはそぐわない。

 先ごろ、「1964年の東京オリンピック前後のカメラ事情を聞かせてほしい」と朝日新聞社の取材をうけた(4月14日(土)夕刊に掲載)。欧米では1960年代に入ると東京オリンピックを境に「スピグラ」から日本製の一眼レフカメラに切り替えはじめていた。その一眼レフに新技術のモータードライブ(連写装置)を搭載していたが、その装置の故障が続出。この頃、日本ではモータードライブは殆ど使われておらず、故障の情報を得て対策を検討するために1962年9月15日渡米。今から56年前のこの日は、奇しくも私の33歳の誕生日だった。アメリカでは、坂元九の「すき焼きソング(上を向いて歩こう)」、日本では「ワシントン広場の夜は更けて」が流行していた。
 この年の2月、南アフリカ共和国の反アパルトヘイトの闘志・ネルソンマンデラ氏が投獄。10月には、米ソ一触即発の危機を迎えた。1963年11月、テキサス州ダラスでケネディ大統領が暗殺される。1964年6月、新潟大地震。10月、東京オリンピック。そして今年は、前述のマンデラ大統領・生誕100周年を迎える。日本は2年後の東京オリンピックの準備に追われ、いとまがない。

 私事で恐縮だが、私は9月15日に90歳(卒寿)を迎える。東京オリンピックまで、あと2年。手元にある愛機「ニコンF」同様、時折、身体のメンテナンスは必要だが、まだまだシャッターを切り続けたい。

2018.7.28

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