エッセイ

REMEMBERING

REMEMBERING
2015年2月22日、午前11時から4回目の追悼式典が市の中心部のBOTANIC公園で行われた。
この日は、大きく分けて二つの追悼行事が市内であった。
一つは、2200人もの参加者たちが集った”あの日を忘れない“10kmランニングが、クライストチャーチを見下ろす丘のビクトリア公園コースで行われたランニング大会だった。
大会は午前9時スタート、小雨に濡れながら2200人の参加者によって行われた。
23日付け新聞のトップ記事の写真には、子どもと手をつなぎ一緒に走る親子の姿が印象的だった。
一緒に思いを分かち合いたいという仲間は、年を追うごとに増え、2013年1700人、2014年2000人、今年は2200人の参加者だった。

二つ目は、BOTANIC公園で行われた追悼式典だった。
広い公園の高く聳える大木に囲まれた追悼会場は、灰色の雲で覆われた空の下、時おり雲間から薄日がもれていた。静粛な会場に音楽隊の演奏曲が流れ、遺族の人たち、市長(写真3 右端の女性)、それぞれの関係者が祭壇の十字架に向かい祈りを捧げた。
その中には、日本国政府関係者(写真3 右から3人目)の姿もあった。
追悼式典の最後には、壇上から神父さんがみなさん献花をしましょうと参列者を促した。
近くで献花を配っておられたご婦人から、オレンジ色の花を一本いただき、献花台に供え手を合わせた。
神父さんが私に、あなたの家族は大丈夫でしたかと安否を尋ねられた。
少し緊張したが、家族はみな無事でしたと感謝の気持ちを伝えた。
神父さんにあなたの写真を撮らせてもらっても良いですかとお願いした。
神父さんのほんの少し笑みを浮かべられた、その優しい眼差しが印象に残った。
神父さんは会場を回りながら、多くの人たちに声をかけられていた。

当時、私は市の中心部よりおよそ15km離れた学校の一階にいた。突然、大きな揺れが起こり、足元がぐらつき、壁に掛けた物が床に落下し、騒然となったが大きな被害や怪我人は出なかった。
急ぎ、家に帰ろうとしても道路には車が溢れ、時間が経つにつれ身動きできないほどの大混雑になった。
家族に連絡をしようとしても携帯は、全く持って機能しなかった。
余震が連続し、アスファルト道路は波打ち変形し、とても運転できる状態に無かった。

地震が起こった時にいた僅かな場所の違いが大きく明暗を分けた。
不幸にも犠牲になった人たちやその家族が、少しでも希望を持って明るく生きていけることを願い、これからも”あの日を忘れない”善意の輪を広げ、みんなで共有し、伝え続けていかなければならない。

© Yasushi Hirai

関連記事

  1. ニューヨーク物語35「パリの風見鶏」
  2. ニューヨーク物語34「存在と無」
  3. ニューヨーク物語30「モハメド・アリと渡辺澄晴と僕の三つ目の坂」…
  4. ニューヨーク物語 5 「私だけの十字架」
  5. ニューヨーク物語33「私だけの十字架 Ⅲ」
  6. 渡邉澄晴の写真雑科 5
  7. ニューヨーク物語 2「”直感と実行あるのみ̶…
  8. 「ニューヨークの写真散歩」

アーカイブ

PAGE TOP