ニューヨーク物語28 「あの空の下で」
知人の映画監督より新作映画の完成試写会案内が届き、春には桜の名所として名高い、東京小金井まで足を運んだ。中央線高架化に伴う工事の為か、残念ながら記憶に残る風情ある駅舎の姿はなかった。また、前夜からの悪天候によって駅前のロータリーの処々には雪が残り、行き交う人々からは「寒い、寒い」という声が漏れ聞こえてきた。
ニューヨークでも、毎年結構な雪が降る。その度に都市の交通は麻痺するのだが、東京でも「多くの通勤客が駅構内に入ることが出来ずに、長い列をなしている」という朝のニュースを聞き、「こんなにも雪に弱かったのか」と驚かされた。
夕方という時間帯もあってか、新宿駅はやや混雑していた。数本の列車を見送ることにしたのは、以前、日本の友人から「東京で列車に乗る時には、両手を挙げろ」とメールが届いたことを思い出したからだ。ここ数年、鉄道各社が女性専用車両を増やし、誤って通勤時間帯にこの車両に乗り込んでしまった時には、濡れ衣を着せられない為にもこの行為が必須だというのだ。
「冗談だろう」と思っていたが、「あの一駅がどんなに長かったかわかるか」と、女性陣から向けられた白い目の様子を語る友人の表情を見てからは、僕も女性専用車両になる時間帯以外でも、このステッカーの貼られた車両には怖くて乗れなくなった。
「ニューヨークに痴漢はいない」、在留邦人からも、また、アメリカ人からもそう聞いていた。実際、ニューヨークのメトロの混雑率は東京よりもはるかに低いし、日常から”ハグ”と共に挨拶を交わす文化であるだけに、他者との接触には気を付けているであろう、という印象もあった。しかし、列車によっては人々が車両の内側まで詰めてくれない(扉付近に集中する)という理由もあってか、通勤時間帯はかなり密着することもある。こうした時、一部のニューヨーカーは無理をせず、次の列車が来るまで待つ。では、ニューヨークには、本当に痴漢がいないのかと言えば、そんなことはない。6-7年前のことだが、友人のエミーは、動きが取れなくなった車内で男性に下半身を押し付けられるという被害に遭っている。それ以前からも、痴漢被害を受けていたそうだ。また、昨年末には、身体に触ったり、盗撮するなどのメトロ内に於ける性犯罪が増加傾向にあることをニューヨーク市警が発表している。
両手こそ挙げなかったが、周辺の乗客をよく確認し、利き手はしっかりと手すりを掴んで目的地までの時間を堪えた。
今回観た映画は、金聖雄監督の『袴田巌 夢の間の世の中』。
1966年、静岡の味噌製造会社専務一家4人が殺害され、放火されるという事件が発生した。当時この会社に勤務していた”元プロボクサー”(日本フェザー級6位 / 年間19戦日本最多記録保持者)の袴田さんが逮捕され、拷問による取り調べによって自白に追い込まれてしまう。世にいう“袴田事件”だ。“ボクサー崩れ”という偏見に基づく捜査だったのではないかとボクシング界も動き出し、裁判では一貫して無罪を主張したが死刑が確定してしまう。その後、再審請求を続け、2014年3月に静岡地裁が再審開始を決定した。同日、「証拠は捏造の疑いがある」、「これ以上の拘留は耐え難いほど正義に反する」として、48年振りに自由の身となった。
この映画は、釈放直後から浜松の実姉、秀子さんと暮らす袴田さんの日常を追ったドキュメントだ。金監督は、袴田さんの行き来する妄想と現実の世界を記録すると同時に、秀子さんの袴田さんへのコミュニケーションの取り方にもカメラを向けた。「冤罪にされてたまるか」、そんな一心で共に戦い続けてきた秀子さん。彼女の誕生日には、多くの仲間が駆けつけてきた。「こんなお祝いをしてもらったのは初めて」、そう語る彼女もまた、48年振りに自分の人生を取り戻しつつあるのだろう。いまなお、収監時同様にひたすら家中を歩き回る袴田さん。その姿は失われた時を思わせるが、カメラは時折起こる拘禁反応(強制的に自由を奪われた人が示す人格の変化)状態も映し出す。ところどころに獄中で書かれた日記や手紙の言葉が盛り込まれ、かつて袴田さんと同じ拘置所に収監されていた無罪の“仲間”たちと語り合う姿も見られる。WBC(世界ボクシング評議会)からは、“名誉チャンピオンベルト”が贈呈され、リング上でガッツポーズをとった。それら袴田さんの記憶が、時空を超えて観る者に突き刺さってくる。
ニューヨークでも、たびたび「冤罪」のニュースを目にする。1990年、メトロ駅構内に於いて、少年たちによる殺人が発生し、当時18歳のJohnny Hincapieがその一人として逮捕された。25年間に渡って収監されていたが、昨年行われた再審で有力な証人が現れ、晴れて無罪となった。
また、1989年、友人を銃で射殺したとされたJonathan Flemingが、主張し続けてきた携帯電話の請求書によるアリバイが確認され、24年間に及ぶ収監から釈放されている。アメリカでは、その保証金額も大きく取り上げられた。ニューヨーク市は彼に対し、$6.25ミリオン(約7.8億円)を支払うことで和解したとされる。
一昨年にも、1989年にセントラルパークをジョギングしていた女性を襲ったとして、10代の黒人とラテン系の男性5人が収監され、後に別の容疑者が浮上した冤罪事件として、ニューヨーク市は5人に対し、$40ミリオン(約41億円)を支払うことで和解したとのニュースがあった。
日本ではどうなっているのか。
刑事補償法(第四条)によって、冤罪被害者に対し、「一日千円以上一万二千五百円以下の割合による額の補償金を交付する」とされる。アメリカの補償額とは比較にならない数字だ。弁護費用や、支援団体へのお礼だけを考えても、到底、妥当な額とは言えないだろう。また、無罪が確定した人に対し、マスコミがその補償金の使い道や釈放後の生活を干渉、批判したという歴史もある。
「冤罪」は、その事件内容に関わらず、当人と同時に身近な人の人生までをも奪ってしまう。そのような悲劇を繰り返さない為にも、捜査は勿論のことだが、裁判員制度に示唆される冤罪の可能性も考慮し、更に慎重な審理が行われることを願うばかりだ。
世界の中でも再審請求の承認率が極めて低いといわれる日本。やっとのことで48年の収監から釈放された袴田さんだが、検察庁が即時抗告した為、現在も死刑因のレッテルは貼られたままだ。
この原稿を書いている最中、「痴漢の疑いをかけられた男性が、線路に飛び降り車両と接触した」というニュースが流れた。痴漢冤罪に遭わない為に「男性専用車両」を切望する声も多いと聞くが、スペインやニューヨークに於いて、心の性別が異なる同性からの被害を受けそうになった経験がある僕は、そのような車両に乗るにも勇気が必要だ(苦笑)。
2016.1.20