棚井文雄

ニューヨーク物語 5 「私だけの十字架」

ニューヨーク物語 5 「私だけの十字架」

 彼女と出会ったのは、まだ私が駆け出しの頃だった。
その頃の彼女は、囲碁サロンと喫茶&バーを経営していた。みんなから「ママ」の愛称で呼ばれ、お店の名前は、亡き英国人のご主人の名前をもらったと聞いたことがある。そこでは、プロ、プロ志望の囲碁棋士を対象とした、高額な賞金の用意されたコンペが定期的に開催され、その度に私が撮影を行なっていた。「お店に来た人は全員撮影して欲しい」、というのがママからの唯一のリクエストだった。仕事の合間を縫って来店する人もいるのだろう、ほんの一瞬だけ差し入れを持って現れる常連のお客さんも多く、長時間の撮影ながら気が抜けない。
 しかし、ママの人柄を伺わせる出来事に、いつも楽しい雰囲気で撮影は行われた。私は1回目の撮影で、たくさんの祝花や食事など様々な画像をプリントした写真を、思い思いの形に切り抜き、大きなパネルに1枚1枚丁寧に貼って、コラージュ写真を制作した。それを手渡しに行くと、ママは大喜びで、その後、私が日本を離れるまでこの撮影は続いた。どんなに忙しい時でも、この撮影だけは断ることはなかった。
その後、私がロンドンに住んでいる時にも、NYにも何度となく「撮影してほしい」とメールが届いたが、一時帰国の際に囲碁サロンに顔を出すのみで、ママの願いを叶えることは出来なかった。

 

 

© Fumio Tanai /  HJPI320610000334

 

 先日、NYの家をしばらく空けることがあった。留守番を頼んではいたが、心配していたグリーンは枯れてしまっていた。NYはまだ寒く、部屋はセントラルヒーティング(全館集中暖房)で常に暖かい状態であったことも原因であろう。これは、2008年春に「ママ」が、私のNYでの個展のお祝いに贈ってくれたものだ。当初は白い花を咲かせ、細長い葉たちが元気な姿を見せ続けてくれていた。ある日、ママに送ったメールが届かなくなった。気になって友人に囲碁サロンを訪ねてもらうと、体調不良の為に一時閉店の張り紙がしてあったとのことだった。知人を通じて連絡先を聞いていたが、回答のないまま時間が経過した。ママが自宅から囲碁サロンまで歩いて通っていることを知っていた私は、一時帰国の際に、微かな記憶を辿りながら、囲碁サロンのあった界隈を歩き回り、聞き込みをした。数時間後、やっと住まいのあるマンションを見つけ出した。しかし、管理人からは「ママ」は亡くなった、と残念な言葉を聞かされた。しかも、ママの最期には、ほとんど人が訪ねて来ることはなかったという。ポケットマネーから賞金を出し続けていた囲碁コンペは、多くの囲碁棋士を育て上げることに一役かって来たことは周知のことだ。それなのに…。義理という響きは好きではないが、日本人の義理・人情はどこへ行ってしまったのだろうか。とは言え、海外にいるから、自宅を知らなかったから、という理由でもっと早く会いに行かなかった私も変わらない。このグリーンを見る度に、囲碁を打っているママの姿が目に浮かんで来る。
 今朝、突然カメラを向けてみたいと思った。ファインダーを覗くと、ピントが合わない。「やっぱりオートフォーカスはダメだな」とマニュアルに切り替える。しかし、事態は変わらない。囲碁サロンでの思い出が走馬灯の様に蘇って来ていたからだと気づいた。あの日からずっと水をさし続けている。グリーンが生き返ってくれることを願いつつ…。

関連記事

  1. ニューヨーク物語26 「フリーダ・カーロの遺品」
  2. 「ニューヨークの写真散歩」
  3. 渡邉澄晴の写真雑科 3
  4. 渡邉澄晴の写真雑科 4
  5. 渡邉澄晴の写真雑科 2
  6. ニューヨーク物語20「恋の季節」
  7. ニューヨーク物語30「モハメド・アリと渡辺澄晴と僕の三つ目の坂」…
  8. 写真の講習会で、私が気を付けていること

アーカイブ

PAGE TOP