ニューヨーク物語38 「田中徳太郎と大倉舜二と”みそ汁”」
あれは中学2年の冬だったと思う。僕は写真家を目指し、新聞や雑誌、タウン誌などの写真関連情報にアンテナを張っていた。そして、ある美術館での「白鷺写真展」に併せて開催された撮影会に参加した。この時、初めて「写真家」という存在を目の当たりにした。それが白鷺写真家「田中徳太郎」氏だった。指定されていた美術館近くの広場に向かうと、巨大な筆を抱えながら仁王立ちする田中氏がいた。そして、間も無く力強い言葉を発し始めた。直後に、この筆で「書」を披露したのだが、当時、初めて見た「写真家」という何者かの存在、その印象がいったいどんなものだったのか今となっては定かではない。あの頃の僕は、ただただ、その写真家のあまりの豪快さに圧倒されてしまったように記憶している。
田中徳太郎氏 / 当時のプリントをスキャニング
このイベント中、ちょっとした事件が起きた。脚に小さな枝を縛りつけていた小鷺が、2羽ほど飛び立ってしまったのだ。ほとんどの参加者は、撮影に夢中で気が付いていない。田中氏と私、そしてスタッフらしき人と一緒に、すぐに追いかけた。小鷺たちがどうなったのか、残念ながら記憶にない。ただ、このとき僕は、「この公園では、小鷺はどの方向に飛んで行きそうなのか? このまま見つからなかった場合、小鷺は生きていけるのか?」そんな質問を田中氏に投げかけたことは明確に覚えている。野鳥を撮影するためには、「機材の性能や撮影技術よりも、まずは野鳥の習性を学ぶこと」と既にプロの写真家を目指していた僕は、どこかでそんなことを学んでいたからだ。
このようなこともあってか、写真家・田中徳太郎という存在と、その作品に大きな憧れを抱き、図々しくもその時に美術館で展示されていた氏の作品を「撮影させてほしい」と美術館に申し出たのだった(近年、日本の美術館でも撮影が許されるようになったが、当時、著作権を知らなかったとは言え、無茶なことをしたと思う)。しばらくすると許諾が得られ、愛機の”ニコンF2”で端から展示作品の複写を始めた。静かな会場内に鳴り響いたニコンのメカニカルシャッター音、それは今でも脳裏に蘇ってくる。翌日の早朝、柵を乗り超えて忍び込んだ学校内の暗室で、そのフィルムを現像した。
再び田中徳太郎氏の名前を聞いたのは、それから20年が経過した、日本写真作家協会の理事会後のことだった。理事会中に偶然僕が発した「田中徳太郎」の名前に、「あんた、田中徳太郎を知ってるのか?」と渡邉澄晴氏(JPA終身名誉会長)が尋ねてきたのだ。翌月の理事会の際には、田中徳太郎サイン入り写真集をプレゼントしてくれた。田中氏は埼玉の自宅から東京に出てくる際には必す渡邉氏を訪ねるなど、長年に渡る交流があったというのだ。二人がここまで親しくなったのは、田中氏が渡邉氏の写真展『ワシントン広場の顔』を見て以来のことだそうだ。写真家・金丸重嶺氏も認めた、《指をからめる黒人男性と白人女性》を見て絶賛していたという。
それからしばらくして、僕はニューヨークへ活動拠点を移した。ここでまた「田中徳太郎」の名前を目にすることになる。ニューヨーク生活において、「MoMA-ニューヨーク近代美術館」は、知人と待ち合わせをしたり、初デートの場所だったり、ちょっとした偶然に出くわすなど、僕にとって特別な場所の一つだ。そんなMoMAに、田中徳太郎氏の作品が収蔵されていることを知らなかったのは単なる認識不足だったのだが、田中氏を含む中学生の頃から憧れを抱いていた写真家たちの作品がここに収蔵されていることを知った時には、まるでこれを追いかけてニューヨークまで来たようにも感じた。
数年前、渡邉澄晴氏と食事をしていると、「そう言えば、田中さんがさぁ〜」と田中徳太郎氏の人柄が伺えるような出来事を思い出してくれた。それは、二人が銀座の和食店で食事をしていた時の田中氏と”みそ汁”に纏わるエピソードだった。当時の田中氏の口調を真似る渡邉氏。その口調から、やはり「田中徳太郎」は、あの撮影会冒頭に披露した筆使い同様、かなり豪快な写真家であったことは間違いないようだ。
“みそ汁”と言えば、3年間師事をした大倉舜二氏と僕との間にも、助手時代の忘れられない”みそ汁事件”がある。それを頭に浮かべながら、何度か大倉氏の墓前に「オヤジ、せっかくこれから(助手時代の)仕返しをしようと思ったのに、(ニューヨークから)戻って来る前に死んじまいやがって…」と言いに行ったことがある。今月、オヤジが亡くなってちょうど6年になる。そろそろ、助手時代のことでも書いてみようかな…ニューヨーク時代の始めまで見続けることになった悪夢のことを…(笑)。
2021.2.28
photo&text: 棚井文雄 / Fumio TANAI / HJPI320610000334